高松盆栽の歴史

小林 盆栽の知識

高松盆栽の歴史

名だたる職人を輩出し、数々の名品を生み出してきた高松盆栽。それはいかにして誕生したのか?

日本一の松盆栽の産地高松、国内出荷量の80%のシェアを占め、盆栽の競技会でも多くの賞を取るのは高松盆栽です。これまでにあまたの名品を輩出してきました。国内では埼玉の大宮盆栽と並び、盆栽の聖地として評価されています。
高松が聖地と呼ばれるようになったのは、いくつかの要因がありますがまずは歴史を見ていきましょう。

高松盆栽の始まり

高松盆栽については、200年ほど前、江戸時代・文化年間(1804〜1818年)の頃からはじまり、近くに自生していた樹を鉢に植えて販売を始めたのが起源だと言われていますが、本格的な盆栽生産は明治期以降のことです。高松盆栽を支える鬼無地区と国分寺地区がいかにして高松盆栽を確立したのでしょうか。

江戸時代よりはじまった鬼無の盆栽

高松市鬼無町の鬼無植木盆栽センター広場にある顕彰碑によると、鬼無町の盆栽は江戸時代・文化年間にはじまりました。山野に自生していた松を掘って鉢植えに仕立てたものを金刀比羅宮への参拝者が土産ものとして買い取っていったことがきっかけとなったようです。

盆栽栽培に関しては発端は高橋周輔の出現によります。高橋は接ぎ木の名人で、皆に技術を伝授しました。同時期に北山太作は松柏の苗木を育てて巨利を得ました。

高橋に学んだ鬼無甚三郎がリンゴの苗をアメリカから輸入し、山林や畑に植え付けると、リンゴの栽培者が増え苗木の注文が殺到、果樹苗木生産が近隣農家に広まり、この生産技術が後の盆栽生産に役立つようになりました。 明治20年(1887年)頃に鬼無地区の山根辨吉や佐藤地区の多田新蔵らが自然の山より採取した山取りの松を盆栽に仕立てることをはじめました。

錦松盆栽、発祥の地国分寺

一方、国分寺町では山林苗木や緑化木の生産をしていた末澤喜市が、同士10人余りと共に鬼無町の多田新蔵を招いて、講習会を開催。盆栽生産技術を習得すると共に、自らも盆栽の生産をはじめました。

明治25年(1892年)頃、末澤の元に、山採りの大変素性のいい錦松を持ってきた者がおり、末澤はこれを高値で買い取って、培養しました。末澤は遺伝性の原則より、立派な錦松の穂木(※挿し木・接ぎ木に使う枝)を取って、接ぎ木してみれば必ず良い錦松が数多く生まれていくと着目、接ぎ木の工夫に熱中しました。

明治27年(1894年)遂に、接ぎ木に成功して大量生産が可能となり、それまでの黒松作りから接ぎ木錦松を取り入れた盆栽作りへと大きく変革していきました。

これ以降鬼無町と国分寺町での樹木類の生産に関しては、盆栽を中心に生産されるようになりました。鬼無町の北谷市蔵と平木松蔵は明治末期に針金による、盆栽の松の整枝技術を開発し、末澤は大正中期に松の捻幹技術を開発しました。鬼無町では宝塚市より北谷利吉と花澤壮八らが高田塚氏より五葉松を導入し、その盆栽生産をはじめました。

戦後の復興と共に全国随一の産地へ

鬼無町と国分町では上記の技術が普及するに伴って、盆栽の生産が拡大しました。 右肩上がりで推移してきた盆栽の生産も、第二次世界大戦で地域全体の生活が行き詰まることもあり、作物を生産するために盆栽畑の松は薪に姿を変えました。一時は途絶えてしまった盆栽でしたが、戦後、畑にわずかだけ残っていた松の接ぎ木により復活します。戦後の経済成長と共に、盆栽の人気が高まり、一気に需要が拡大しました。

盆栽に適した環境



花崗岩系の砂壌土で水はけがよく、雨が少なく、日照時間が長いという点で恵まれた立地条件、瀬戸内海沿岸の気候が、他の産地にはない、風格のある盆栽を生産することを可能にしました。

育成などで培われた剪定や接ぎ木の技術を伝承、改良していく、全国随一の松盆栽の産地として成長しました。 水はけのよい土地で育った香川県の松盆栽は、その姿が美しいのはもちろんのこと、「根腐れしにくく、傷まない」と定評があります。

近年のブランド化と全国展開

全国的に盆栽ブームだった70年〜80年にかけては高松盆栽は知る人ぞ知る盆栽の里でした。というのも高松で作られた多くの盆栽は、盆栽として整枝され完成される前段階の素材として全国の盆栽園に出荷されて各地の職人によって仕上げられていたため高松盆栽という名前が出ることもあまりなかったのです。00年代に入り埼玉の大宮が盆栽の里として有名になったこともあり、高松も全国の人に知ってもらおうという機運が高まりました。生産者や販売事業者、市や県が一体となり県外にアピールしはじめました。香川県では瀬戸内国際芸術祭の盛り上がりもあり、盆栽イコール芸術として高松の盆栽をPRしています。

日本一の松盆栽の産地から世界一へと

高松盆栽が世界から注目される大きなきっかけとなったのが、高松市で2011年に開催された「第11回アジア太平洋盆栽水石高松大会(ASPAC)」です。日本で初めての開催となり、アジア、欧米諸国など40以上もの国々から盆栽ファンが集結しました。また、2014年の高松盆栽大会にも、世界各国から大勢の盆栽愛好家が訪れ、盆栽の聖地としての知名度を決定的にしました。

今では、日本一の松盆栽の産地から世界一の産地として知名度も上がり、アジア、欧米諸国から、バイヤーが絶えることなく訪れています。

高松盆栽の歴史まとめ

高松の歴史は日本の盆栽の歴史と言っても過言ではないぐらい職人や生産者達の苦労や努力がありました。高松に訪れると国分寺、鬼無地区には畑に植わった盆栽の風景を見ることができます。また盆栽園も数多く所在し職人たちが今も日々研鑽しています。

  • 高松は松盆栽の国内出荷量80%のシェアを占める
  • 始まりは200年前の江戸時代
  • 国分寺地域、鬼無地域で発展
  • 戦後の経済成長とともに盆栽の生産量も拡大
  • 松の生育には良い環境だった瀬戸内の気候
  • 高松盆栽のブランドは全国へ、そして世界へ

高松盆栽の歴史を知ることで高松が身近に感じることができたでしょうか。香川県の見どころはうどんや瀬戸内芸術祭が有名ですが、盆栽観光も選択肢に加えて香川の旅をぜひ楽しんでください。

ブログに戻る

この記事を書いた人

小林真名実

小林真名実
福井県出身。関西学院大学卒。雑誌・書籍・ウェブ・携帯サイトの編集に従事。その後、日本の映画・放送・アニメーションなどのコンテンツ産業を国際競争力ある産業とするNPO法人にて広報、戦略室業務などを担当。その後、出産を経て夫の転勤に伴い香川県に移住したことをきっかけに盆栽を知る。日本の伝統文化である盆栽の奥深さを世の中に伝えたく盆栽総合情報サイトの立ち上げに参画。編集長に就任する。
プロフィールを見る